京の右書き看板 新庄輝也
目次
まえがき
右書き看板写真集
第一部 菓子屋
第二部 菓子以外の食品店
第三部 食料以外の商店
第四部 その他:商店以外、旅館、変わった看板など
あとがき
まえがき
中国から日本に、漢字とともに右縦書き方式が渡来し、以来長年にわたって使い続けられてきた。一方、欧米語の影響もあって、左横書きが200年ほど前から始まり、次第に縦書きを圧倒しつつあるのが現状である。実は100年前の日本では、日本語を横書きする場合には右からと左からが共存していた。今から考えるとむしろ不思議であるが、新聞の横書き見出しはすべて右から書かれていた。ところが外来語や数字と組み合わせるためには左書きの利便性は明らかであり、朝日新聞の見出しは昭和22年の年頭に右書きから左書きに転換している。おりしも日本は敗戦直後で、外来語が急激に増加した時期であり、その頃から右横書き方式の利用は激減して行った。実は、もともと日本語に本当の意味の右横書きが存在したわけではなく、お寺などに見られる漢字を並べた額は一行一字の縦書きと解釈されている。右から一行書いた後、右端に戻って二行目を始めている例はない。右横書きは一行のみの特殊な用法であり、見出しや看板などに限り存在したものである。
終戦後に新しく作られた看板のほとんどが左書きであり、現存している右書き看板の多くは70年以上が経過したものである。耐用年数を過ぎて、まもなく消えていく運命にあるものが多いのではないか、と思われる。絶滅危惧種であれば、現在どんな看板が残っているのか、無くなってしまう前に記録しておきたい、という気持ちで撮り始めたのが、この写真集である。右書き看板を掲げていることはその店が70年以上長生きしている証拠であり、どんな業種が伝統を持っているのか、を認識することができる。看板を通じて町の変遷の一面を考察してみようと考えた。
写真集
第一部 菓子屋
第二部 菓子以外の食品店
第三部 食料以外の商店
第四部 商店以外、旅館、変わった看板など
あとがき
普段使っている左横書き日本語にあらためて関心を持ったのは20年ほど前、「日本人のユニークな発明といえるものはなにか?」と考えていたときである。もともと右縦書きしかなかったところに左横書きを登場させたことは大変な発明だったのではないか?と気がついた。左書きの効能をいまさら説明する必要もないが、そもそも漢字とひらがなを適当に混ぜた読みやすい日本語文に、カタカナあるいはアルファベットを用いて外来語を混ぜたり、数式や音符などをそのまま取り込める点が大きな長所である。日本が外来文化を吸収する上で、左書き文は大変役に立ったと思われる。それに比較すると、右書きのアラブ語では左書きの欧米文化を取り込みにくく、近代文明の流入が遅れた原因もそこにあるのではないかとさえ思われる。そこで、誰がこの左書きを推進した偉大な先覚者だったのかを知りたいという気になった。
2003年に「左書き登場」(屋名池誠著、岩波新書)という本が出版され、いろいろな資料が紹介されていて、そのあたりの事情がかなり明らかになった。左書きはやはり明らかに外来文化の影響を受けて始まっているが、日本人は好奇心が旺盛で、違和感は意外に少なかったらしい。左書きはいろいろのところで、徐々に始まっており、旗を振った先覚者を一人特定するのは困難であることがわかった。
そもそも昔からの日本語はなぜ右縦書きなのか? これが中国から渡来した方式であることは確かであるが、その根源の理由は明確ではない。金田一春彦著「日本語」(岩波新書)によれば、「もともと文字の主な用途は手紙で、巻物に記すことが多かったが、右手で開きながら読むためには右から書かれているのが便利であった。」と説明している。なるほど、と一瞬思うが、良く考えると大して説得力がある説明でもなく、左から書いてあることがわかっておれば左手で開けばよいことで、そんなに不便ではない。右書きには明らかな短所があり、筆に墨を付けて書く際に、しばしば書いた字に右手が触れて汚してしまうおそれがあることは習字の練習で体験したところであるが、これは左書きにすれば簡単に解決することであり、手暗がりになりにくい点でも左がはるかに優れている。日本は中国の方式に倣っただけであるが、中国はなぜ右書きを採用したのか、理解に苦しむ。漢字を使い始めた頃はまだ紙に墨汁を付けた筆で書く習慣がなく、石や板に彫り込んで書いていたために右書きの不便さを感じなかったのかもしれない。
横書きに関しては、右書きと左書きがせめぎあう時期はかなり長く続いた。日本語は右から書くのが伝統的であるとする国粋主義者の強い主張もあって、新聞などの横書きの見出しには長らく右書きが採用されていた。右横書きに引導を渡したのは敗戦であり、それ以後の印刷物のほとんどは左横書きを採用し、右横書きはただ「古い」ことを表す目的にしか使われなくなった。明治時代には左右の勢力が拮抗していたため、どちらに統一するかという方針がしばしば揺れ動いたと伝えられている。その頃の話として、前述の金田一先生の書には次のようなエピソードが紹介されている。ある時、山手線の駅長が召集され、駅名の表示方法を統一するための説明会が行われた。「表示板をどちらから書くか」が説明されている時に、一人居眠りをして全く関心を持っていないような駅長がいた。そこであなたはどこの駅長かと聞いたところ、私は「たばた」駅の駅長で、どちらから書いても同じなので興味がありません、と答えたという。しかしこれは明らかに作り話である。左右どちらを採用するか、で揺れ動いたところまでは本当であろうが、問題は「田端」と「端田」のどちらを採用するか、という話なので「たばた駅」にとっても無縁ではない。すなわちこの話は落語のネタのような笑い話で、事実ではなさそうである。
数年前から右書き看板に興味を感じるようになり、カメラを持って街をぶらついた時に現存する右横書き看板を写し始めた。結果はご覧の通りで、さすがに京都には少なからず残されていることがわかり、同時に長年継続しているのはどのような職種なのかを認識することができた。看板は町の歴史を物語る重要な資料の一つであるが、雨風に曝される場所にあるため、ひどく傷んでいるものも少なくない。中にはほとんど字が読めないものまである。誇りを持って「看板を守っている」にしろ、単に「看板が残ってしまっている」にしろ、右書き看板は同じ職業を一世紀にわたって続けてきたことの証明であると思えば、店主には(当然代替わりしているはずであるが)感慨深いもののはずである。折角の看板があまり汚れている場合は少し化粧直しをして、街の美観に貢献する存在にさせるよう、お願いしておきたい。
ところで、数は少ないものの最近作成された右書き看板も見受けられ、絶滅するのはまだかなり先であることもわかった。どうみても創業が新しい、という店に右書きの看板が掲げられている場合には首をかしげるが、誇示したい歴史があるという意味であろう。看板は消耗品なので、100年に一度位は看板を新調する必要があるが、同じ内容の看板を復元するなら文字も右書きを続けるのが自然である。一方、寛永年間創業などと注釈を付けながら左書きを採用している看板も見受けられるが、伝統を誇示したいなら左書き看板は興ざめであり、右書きにしてほしいものである。古さを感じさせることにしか右書きの効用は無いが、その効用は今後むしろ高まっていくと思われる。
追記:本ホームページを立ち上げてから2年以上経過したので、このたび、それ以降に収集した写真を含めて内容を充実させた増補版を作成した。
平成26年1月に、本ホームページが京都新聞(2014-01-04)の紙上で紹介され、その反響としていくつかの情報がえられた。歴史学者の岡田英三郎氏もやはり同じ時期に右書き看板を収集しておられたことがわかり、未公開のアルバムを参照させていただいた。今回付け加えた写真の中には岡田氏の情報を利用させてもらったものがかなり含まれているので、岡田氏には深く感謝の意を表したい。
(2014年8月記)
2014-01-04 京都新聞記事
初 版:2011-12-31
改訂新版:2014-08-15
Nada9のページへ
トップページへ